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弟弟ていていたり」とは弟が弟として兄を慕うこと。もじって「弟不弟ていていたらず」とは、つまりそうではないこと。



「すぐには、答えられない」
 困り果てた顔をして長い間沈黙したあと兄が言ったのは、冷静になって思い返してみるにそんな言葉だった。
 頭に血が上り切っていた関興にさえ、兄が極めて慎重に言葉を選んだことは伝わった。
 兄が自分を好きだという自信があったわけでもないのになぜか当たり前のように色よい返事がくることを想像していた関興はかなり動揺したのだったが、その内心を押し隠すために慌てて、しかし力強く言った。
「兄上、私は返事が欲しいのではありませぬ。見返りが欲しいのでもありませぬ」
 関興はいざりよって更に言い募る。
「ただ、私を弟とだけ見ないで下さい。一人の男として、相手として可能性を与えて下さい。それで兄上のお目にかなわないのならいたし方ありませぬ。いつまでも弟としてしか見てもらえないのはいたたまれませぬ。兄上のために、きっと立派な男になります。兄上を守れる男になりますから」
 一瞬兄が怪訝な顔をしたのが刺すように印象に残った。
「…。分かった」
 兄は誠実な彼らしく、考え込んだ末くり返し一言言った。
「しばらく時間が欲しい」

「久し振りに稽古をつけてやろう」
 物思いがちな様子を見せていた兄がにわかにそういい出したのは数日後だった。
 なにか意図があるのだろうが、兄と手合わせできることが単純にうれしい。
 喜び勇んで剣をつかんで庭に出た関興だが、座り込んで兄を見上げることになるまでいくらもかからなかったのだった。
「手加減しているのか? 私を切ってしまわぬかと心配しているのか。殺す気で掛かってきても構わぬぞ」
 峰でしたたかに打ち据えられて、痛いより驚きで膝をついた関興の上から、聞いたことのない声がする。
「いくらお前が才長けていると言えど、まだまだお前のごとき若造に遅れは取らぬ」
 冷たい声だ。関興は兄のこんな声を聞いたことがなかった。特に、この自分に兄がこんな風に言うのを。
──これが本当にあの兄上か。
 確かに、躊躇していては勝てない。剣を構え直した関興は本気で打ちかかったものの、剣先で払われて懐に入られた。
「これが戦場であらば、今、首が胴体と離れたぞ」
 兄の顔が残忍に見えたのは、首筋に当てられたやいばに映して見たせいではないように思われた。
 身動きした隙に本当に切り捨てられるような気がして、生唾を飲むのもはばかられた。
 関興から奪い取った剣を放り出して、関平は高圧に言った。
「習いさしの剣が私に通用すると思ったか」
──本当に、あの…。
 剣は地に突き立った。
 自分に対してそんなぞんざいな所作をする兄ではなかったのにと関興は驚き、そしてそんなことに驚く自分にあきれながら、剣が光るのを見詰めていた。
 同世代の中では関興の剣の腕は抜きん出ていて、相手になるのは張苞ぐらいのものだった。張苞が叔父について成都に行ってしまってからは敵になるものは皆無だった。剣に限ったことではない。学問でも遊びでも、なにをするにも関興は仲間内で主導者だった。
 そんな関興が自分を過信するのは無理もなかったし、そもそも過信でもない。
 友人どもでは稽古にならないので、大抵剣術の相手は父の部将で、一番相手になってくれたのはもちろん兄だったが、しかしそう言えばいつごろからだったのだろう、兄が相手をしてくれなくなったのは。
 打ちひしがれて顔を上げなくなった関興を置いて、関平は立ち去った。
 自分がすっかり気力をくじかれているのを見れば兄の態度が軟化するのではないかといういくらかの期待もはかなく消え去ったので、関興は一人しかたなく部屋に戻って汗をかいた衣服を着替えるのだが、明日にはさぞ派手になるだろう体中のあざを改めて、関興ははっと気づいた。
──これが兄上の条件なのですか。
 兄はあれでも武才を見込まれて父の元にきた男だ。自分が仲間内でいくら腕が立とうとも、一朝一夕にかなう相手ではないはずだが、しかし、
──兄上にかなわぬようならお呼びでないと、そうおっしゃるのですか。

 それにしてもあの時の兄は別人のようだった。本当に人を切ろうとすれば、あんな目になるのだろうか。
 腕が立つとうぬぼれてはいるが、いくらいきがっても自分は所詮、悲しいかな、実戦経験がない。
 関興は思い切って尋ねた。
「兄上は人を、その…人を切ったことが、おありなのでしょうね」
 "殺した"と言うのがはばかられて、関興は言葉をごまかした。
「もちろんだ」
 関興が口ごもるのを微笑して見て、関平は続けた。
「初陣は汝南で青州兵とだった。長坂坡では数え切れぬほど切った。益州でもな。そのうちどれくらいが死んだのかは知らぬ。数えるすべもないし、知ったからといってどうかなるものでもない。興、」
 そこで関平は言葉を切って、弟を求道に迷う部下を諭す目で見た。
「考えている間に、お前が切られるのだぞ」
 関興はその負けん気からなにか一言でも言い返したい気配を見せていたが、返せる言葉はなにもない。
 説教じみてきたので、関平は調子を変えて兄らしく親しく語りかけた。
「お前は利発だから考えすぎるのであろう」
 関興は自分を率直なたちだと思っていた。開けっぴろげで男気のある方だと。
──いやきっと、そう思いたかっただけなのだ。
 考え込んで口が動かなくなった弟を関平は微笑ましく見る。
「お前は小さいころから、威勢はよかったが情の厚い子だったからな」
 兄がいつでも人前でもはばからず手放しで自分をほめることに慣れていたはずの関興だが、急に気恥ずかしくてますます口が重くなった。
 兄は自分のことをなんでも知っている。自分が知らない幼いころのことまで。
 その夜関興は悶々として考えた。
──私も兄上のことを、すべて知りたい。
 あまりにも陳腐な言葉で陳腐な欲求だが、しかしこれが今の自分の心にもっともぴったりくると一旦思うと、もう他のことは考えられなくなった。そしてわざと取りつくろわずそのままを翌日兄に告げたのだった。

「分かっているさ」
 兄はわずかに探るように関興見たばかりで、関興が思い描いたようには驚きうろたえてくれる様子もなく、そう返事した。
「あの、兄上、意味を…?」
「取り違えていると思うか」
「──。いえ」
 縮こまって関興は答えた。
 背丈はいつのまにか兄をこえても、兄を見下ろすことはまだできない。
「お前に返事をする時がくれば、そのつもりで答えるつもりだ」
 ずっと主導権を握られっぱなしの関興は、これで兄の冷静を突き崩せる、自分が手綱を握れるという計画だったのだが、その目論見も見透かされていたに違いない。関興は自分の幼さに恥じ入るばかりで、もう逃げ去りたいくらいだった。
「経験がおありなのですか」
「ない。ないが、それを恥ずべきこととは思っておらぬ」
──兄上は大人なのだ。
 人を切ったことがある。人と寝ることを興味本位で語ったりしない。
 言葉を飾らない兄は実に大人だと、そして自分は心の繊細に欠ける本当の小僧だと思って言葉をなくす弟を眺めて関平は続けた。
「あせってそういうまねをしたいとは思わぬな」
 それはまさに自分の内心を見抜いていたので、関興は動揺で立ちくらみがした。
 袈裟懸けにばっさり切り捨てられた気分だ。
──ああ、こんな結果になるような気もしていた。
 兄は大人しい性格だが、気が弱いのとは違う。
 そして兄は自分の性格を、自分が隠したいことまで知っている。
 そんな兄ならばこんな風にはっきりと、致命的な短所を指摘して落第を言い渡すことができると恐れてはいた。
 しかし兄は自分には採点を甘くしてくれるに違いないと安心してもいたのだが、
──今の言葉こそが、返事も同様ではないか。
 関平は深い意味はなかった言葉を弟が誤解したのを気づいたが、訂正してやらなかった。
 いくら弟がかわいくとも、甘やかしてだらしのない男にするつもりはない。
 この弟はその程度の男ではないはずだ。


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