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 それは地獄絵図だったと、もう十年以上もたった今でも関平は時々、目の前に見えるように鮮烈に思いだす。
 長坂坡。
 それは、関わった多くの人の人生観を変えた長い坂だった。

 民の行進の世話を劉封に任せ、関平は馬をせかして人の波を脇から一気に抜き去り、前方の、上将の妻子が乗る輿のあたりにやってきた。
 消息をたずねてその一つをのぞくと、中では子供たちが母に抱きついてがたがた震えていた。
「兄様!」
 自分の顔を見て、すぐ下の弟が取りついてきた。
「兄様、こわいよ」
「大丈夫だ興。なんともない。じきに、その、いいところにつくから」
 せいぜい平静を装って、その頭をなでてやる。
「ねえ兄様、興は旅行はもういいよ。おうちにかえろう。おうちにかえりたい」
 敵の追手から逃亡するなどとは幼い子に言えず、遊びに行くのだ、旅行だと、そう言って出てきたのだが、しかし。
 お前の生まれ育った家は火計ですでに焼け落ちてしまったとは、関平はどうしても言えなかった。
「こわいよう」
 泣きつかれて、関平は途方に暮れた。
 言えはしなかった。
 もう帰るところなどないなどとは。
 それにだ、よしんばこの絶体絶命の窮地を脱することができたとして、自分たちはこれからどうなるのだろう。
 家もなく、領地もない。ほんの数日後には食べるものにさえ困るだろう。
 まだこんなに幼い弟たちは、今後どんな過酷な環境で育っていかねばならないのだろう。
 幸い住むところを得たとしてもよそ者として肩身の思いをし、言葉にも風習にも苦労をしなければならない。

 考えれば考えるほど前途は暗いばかりで、関平は思い切って弟に笑いかけた。
「兄様がお前たちを守る。必ず」
── 一体、どうやって?
 心の中で自分が言うのを無視した。
 普段は大人に手を焼かせてばかりのどうしようもないやんちゃ者の張苞までもが、輿の隅でうずくまってひいひい泣いている。
 父親が命がけで職務にあたっている今、自分がなんとしてもこの子らを守ってやらなければ。

 弟を母の手に返し、関平は輿を離れた。
「あ、若、おけがなさっています。お手当を」
「いらぬ、大事ない」
 荒っぽく言い、馬首を巡らせて関平は行軍の末尾に向かった。
 こんなかすり傷の手当てなどより、もう一瞬でもこの場にいることが耐え難かった。

 なんとかするなどと言って、あてはなにもない。
 張叔父が敵軍を一人で食いとめると言って長坂橋に立っているが、もしもその防衛が突破されたらどうなる。
 いや、もう今にもその危機は起きているのかも知れない。
 父は援軍を呼びに別行動し、趙将軍は行方不明。
 もはや一線級の将は残っていない。
 その三人の武勇があまりに高すぎるために、自軍の戦力不足は普段あまり身にしみて感じることはないが、彼らがなければ途端にこのざまだ。
 続く将と言ってはもう、糜兄弟に劉封と、名を上げるのもおこがましいが自分くらいしかない。
 しかし、自分が獅子奮迅の働きをして敵兵を千も二千も葬り去ったとしても、五十万曹軍は蚊に刺された程度にも思わないだろう。
──どうしたらいい。
 心細さに目まいがしそうだった。
──父上、力をお貸し下さい。
 父であったならば、あの軍神と称される父ならば、この窮地をも覆すことができるのだろうか。
 きっとできるのだろう、関平はそう思った。
 どんなに不利な境遇でも、周囲の無数の人間から寄せられた絶大の信頼を、父なら果たすのだろう。
──力が欲しい。父上のような力が。

 領主の息子である劉封が最後尾を守っていることで、民草はなんとか心の平静を保っているようだった。
 公子みずから末端の民と行動を共にすることへの感動もあり、いや、劉封様がおいでということはここはそれほど危険な場所ではないのだという安堵もあり。
 劉封はそいういう心理計算のできる男だった。
 怜悧過ぎるために冷たい印象を与えがちだが、人の心を思いやり、そしてそれを実行に移すこともできる男だ。
 友人の顔を見て関平も少し落ち着いた心持ちがした。
 うつむけていた顔を上げれば、見渡す限りの逃げ惑う人々。その多くは老人、女、そして子供。
 彼らは住み慣れた家を追われ、腹をすかせ、弱り、疲れ果てていた。
 数え切れないほどの、なんの罪もなく力もない、善良な民。
 自分たちは、戦のない国を、誰もが幸福に暮らせる国を興したいと志したはずなのに、そのまず第一歩で真っ先に、もっとも弱い者たちを踏みつけにしてしまった。

「関平殿」
「劉封殿、私たちはきっと、きっと生涯をかけて、よい国を作りましょう」
 関平が肩を震わせているのを見て、劉封は黙ってうなずいた。
 いささかでも腕に覚えのある壮士ならば、この光景を見てそう誓わずにいられる者はないだろう。
「子供たちが恐ろしい思いなどせずに済むような世を作るのです」
 頬に流れた涙を隠そうともせず、関平は友の手を取った。
「必ず、私たちの手で」
「きっとそうしましょう」
 若い彼らは情熱のままに誓いを立てた。
「私は、そのためならなにも望みません。己の身の幸福など金輪際望みません。なに一つ」


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