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「大兄。大兄にはひとかたならずお世話になり、この張苞、お役目にてひとたび成都に戻りましてもご厚恩忘れるものではございませぬ」
らしくない、しゃちほこばった挨拶をして張苞は、へへえ、とばかりわざとらしいほど低く平伏した。
関平はそれを満足らしく聞き、うなずく。
成都からの再三の帰還命令を無視して江陵で遊びまわっていた張苞だが、業を煮やした張飛が義兄に直接使いをよこし、張苞はついに関羽から直々に、事情の仔細は知らないがとりあえずいったん帰るようにと指示されてしまった。
関羽も昔の弟の行状を知っているからには、甥が放蕩をしようが無理もないという目で放置していたのだが、今は父親となったかの弟が、それでは俺の立場がないと嘆くので、こうした折衷案が取られた次第だ。
天下の漢寿亭侯のご命令では、怖いもの知らずの張苞も聞き入れる他ない。
彼女には、すぐ戻るから新しい男など作るなと言い聞かせ、荷物をまとめ、と、そこで問題となるのが、怖いものなどないはずの彼が唯一恐れている従兄である。
張苞はこれまでも成都と江陵を気ままに行ったりきたりしていたが、いつのまにか江陵をうろうろしているかと思えば、またいつのまにか消え失せているといった具合で、だらしがない、目上の相手に折々挨拶ぐらいするものだと、関平に呼び出され、みっちり説教された。
ど正論の説教を延々と聞かされ、張苞はしばらく立ち直れないほどくたくたに疲れた。
例えばこれが父に叱られたならば、「この馬鹿野郎」と、意味は薄い怒号とともに二、三発ぶん殴られ、しかしそれはその時だけであり、次の日にもなれば顔のはれはすみやかに引き始め、父はその事実自体もう忘れているといった具合でまことにからっとしたものだが、この従兄にお叱りを受けるとしばらく後を引く。
さすがの張苞もこれにこりて、文言をあらかじめ考えた上で、別れの挨拶に参上したというわけだった。
張苞がぺこぺこするのを、兄と並んで眺めてにやにやしていた関興だったが、次の一言で途端にふさいだ気分になった。
「成都に参ったならば、劉封殿には私からよろしく申し上げてくれ」
「は」
兄に言いつけられてしぶしぶ張苞を駅亭まで送っていく間、関興はぶつぶつ考えた。
──なんで、劉封殿に、劉封殿にだけ、わざわざ兄上はことづてを?
それは関平にしてみれば、建国の志を共にした友人、遠方にあって会い見ることもまれな友に対する軽い伝言に過ぎなかったが、恋に目がふさがっている関興には到底そうは思われなかった。そもそも、劉封が劉家の養子に入ることを反対した父と同じで、関興も劉封が好きではなかった。
なにしろ劉封は、誰もが認める美男であったのだ。
──兄上は、面食いでいらっしゃるから。
恥ずかしげもなくそんなたわごとを言うのはどの口であろうか。
しかしその上、劉封は学問も大変にできた。
秀才であることがその誇りの大部分を占めている関興にとって、兄が劉封を憎からず思っているとすれば、これは大変な事態だ。
「なんで、劉封殿に」
思考がそのまま口からもれしまった。
「ああ?」
「えっ、いや。なんで兄上は、劉封殿によろしく申し上げて欲しいなどと特におっしゃったのかと思ってな。いやちょっと、ちょっとそう思っただけだ」
──ははあん。
元々は、父の猪突猛進を生き写したかのような張苞だったが、恋愛に関してはしばし苦労し、経験を積んでいる。自分の彼女が、他意はないのだろうが憧れの君である関興をほめる、そのたびに関興を八つ裂きにしてやりたい気分に駆られる感情の動きから連想すれば、関興の現在の心理など容易に分かる。
「さあてな。まあ大兄と封兄はずっと組んで戦場に出て、個人的にも仲よかったらしいしな!」
「そ、そう、なのか?」
関興の顔色がみるみる青くなったので、張苞は心の中で歯を出して笑った。
「そりゃそうよお前、変だと思わなかったか。劉の伯父上が益州に入った時、封兄がついてったのは当たり前としても、いつも二の伯父貴にべったりくっついてた大兄が、なんでお供したんだか。不自然だろ。一緒にいたかったんじゃないのかねえ」
「それは、きっと、いやあの」
しどろもどろになる関興に、張苞はそれぐらいで許してやって「冗談、冗談」と肩を叩いたが、関興の方は到底冗談ですませられる気分ではなくなっていた。
男前で頭脳明晰な劉封は、武芸も達者で勇猛で、その上、主筋に当たる彼には家柄でも太刀打ちできない
要素的に、勝てる部分は見当たらない。
なにごとも、とりあえず理詰めで考える関興の脳裏に、敗北という二文字が大きく展開した。
「ど、どうした、興」
元気に出かけて行った弟が死人のような顔で帰ってきたので、馬の世話の手をとめて歩み寄る。
「具合が悪いのか。風邪でも引いたか。熱があるか」
「あ、兄上」
今にも泣き出さんばかりである。
自分はもう大人だとしつこいほど豪語した彼はどこに行ったのか。
しかし今や彼には「かわいい弟」という点しか優位性は残されていないのだ。それだけは彼固有の武器である。だが、それは果たして恋人という立場を守るのに有効なものであろうか。
「兄上は私のどこが好きですか。顔が好きですか。学問ができるからですか」
「なんだ、なんの話だ」
「兄上が劉封殿が好きなら私には勝ち目がありません。私よりも美男で私より優秀です」
ちょっとの間に、またとんだ話になったものだと関平は思った。どこをどうつついてそうなったのか。
──それにだ、「私よりも美男」などと自分で言うものではない。
関平はすっかり分別くさい兄の気分になった。
「…。それではお前はどうなのだ。お前は、私のことを好きだ好きだと言うが、一体どこがよくて、私を好きなのだ」
「え、それは」
言われてみると、これは実に難しかった。
兄が、誰よりも勝る点。
兄は特別に目立つ欠点はなく、およそのことは人並み水準と言えようが、しかし逆に突出した才能というと、取り立ててないのではなかろうか。
「う、うーん」
「言えないのなら、私を好きではないということだな」
「そんな。いや、兄上ずるいです。質問に質問で返すなど。私の質問が先です。私のどこが好きなのですか」
関興はもはや涙目になり、いい歳をした青年とは思われないゆがんだ情けない表情を見せていたが、そんな弟に向かって関平は一言言い放った。
「顔だ。私はたまたまお前の顔が好みなのだ。顔が好きなのであって、単にそれだけだ。だから、みっともない顔をした今のお前は好きではない」
「そんなあ。待って下さい兄上。顔を洗ってきますから」
完全にべそをかいて追いすがる弟を少々かわいそうにも思うが、人の愛情を疑うような不心得者は弟としても恋人としても問題であり、これは己が責任としてしつけ直さねばならないと考える関平だった。
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