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 あの晩以来というもの、関興は極めて品行方正を通していた。そして兄につかず離れずしていた。
 自分がこうしているのを兄が見て、反省していると認めてくれればよいと、もっと言えば、やはりあの晩の弟の行動はとがめるまでもない出来心だったのだと思ってくれるようにと祈っているのだが、しかし兄に正面切って謝る度胸はないためある程度の距離は置いていた。
 関興は子供のころからなにをやらせても出来がよかったので、叱られ慣れしていなかった。特に兄は常にほめてくれたので、その兄に叱られると思うと肝が縮み上がるほど怖かった。
 今日も家に帰るのが億劫で足取りも重く家路をたどっていると、どら声で自分を呼ぶ者がある。
「よう、威勢が悪いな。猫っかぶり」
「お前、張苞! どうして江陵にいる」
 張叔父の息子・張苞は関興とは兄弟さながらの仲だったが、立て込んでいる今は相手したくない厄介な奴だ。
「伯父上のお使いできたついでに、猫っかぶりの顔を見てやろうってんだろうが。なあ」
「俺をそうやって呼ぶんじゃねえって前っから言ってんだろうが」
「おお、そんな口利いてよ。お兄様に聞かれてもいいのかね」
「くっ。こい!」

 張苞との会話は大抵人に聞かれたくないものになるので、往来での立ち話を避けて連れ立って酒場に入ったのだが、そこで群れて大きな顔をしていた若い男どもは張苞の顔を見て震え上がり、勘定も早々に尻尾を丸めて逃げ去って行った。
「けっ、胸くそ悪い」
 店のおかみもおびえて注文を聞きにもこない。
「酒どんどんもってこいよ!」
 人目を避けて壁際の席を選んだ関興の心中を無視して、われ鐘のような声で張苞は怒鳴る。店主はまだ及び腰だったが、関興が一緒と見てなんとか気を落ち着かせたらしく酒を運んできた。
 周囲の反応も無理はないことで、張苞は最近までこのあたり一帯を締めていた乱暴者だった。
 彼がいなくなって江陵はとても静かな町になり、みな胸をなでおろした。
 当時から周囲は、従兄弟同士とはいえなぜ関興様があんな粗暴な男と親しくなさるのかと不思議に思い、まじめな関興様は奴を校正させようとなさっておられるのだと解釈していたが、それは大いなる間違いだった。
「つまみがねえぞ」
「ちったあ大人しくしろってんだ」
 叫ぶ張苞の襟首を関興はまわりにわからないようにつかみ、まわりに聞こえないように小声でそう毒づいた。
 この態度でも分かる通り、張苞が働いたと思われている悪事はあらかた、関興もぐるになっていたのだった。自分の手は汚さず裏で糸を引いていた分だけ、よりたちが悪いのは言うなれば関興の方だった。

 二人は水のように酒を流し込んで口を滑らかにしてから近況を話しあったが、主に張苞が関興の愚痴を聞かされることになった。頭の回る分だけ、口数も関興の方が多いのだ。兄との間にあったことをこまごま話して聞かせた。
「大兄に殴られただなんて、そんなに落ち込むほどのことか。俺なんかしょっちゅう親父に顔の形が変わるほど殴られてる」
 張苞は父たち三兄弟の息子で一番年長の関平を大兄と呼んでいる。彼にとって関平は武芸の師でもある。
 彼らが幼い頃、劉備の軍勢は新野のせまい城内に集まり住んでおり、両家の官舎も隣近所だったので、歳もひとつしか違わない二人はごく親しい仲だった。そして関興がいつも張苞とつるんでいたので、弟に武芸を教えるついでにまとめて面倒を見ていたのだ。
 関興にとっては、兄には見栄が先に立ってさらせない本心でも張苞になら聞かせても気兼ねないという仲だ。
 関興が兄に首ったけなのも始めから知っていて折々に冷やかすので、関興の方でも兄は優しくて、自分をかわいがってくれるのだと始終のろけて聞かせるのだった。
 張苞にしてみればまじめな分厳しかったその師は少々取りつきにくい感覚が強く、関興に聞かされる話を信じないわけではないが彼とは違った印象を持っている。手のつけられない悪ガキで通っていた張苞も剣を握った従兄の前では平伏するしかなく、よそでは行く手を阻まれたことなどないだけに関平のことは大層苦手だった。
 姫君を母に持つ張苞だが、なにしろ父親があのような人物なので、腕力に頼った教育方針に日々にさらされて育った。しかしそこはそれ、父の場合は調子に乗せてやって怒りの矛先をちょいと変えてやるのはわけなかった。息子の教育のため心を鬼にしているというよりはただ腹を立てている父の機嫌を操作するのは幼い張苞にも難しくなかった。
 しかし、融通が利かない師になまけているのを見つかった日にはそうはいかない。大抵理不尽に激している父と違い、関平の場合は本人も悪いことをしたとしみじみ分かっているところにくる説教なので臓腑にこたえるし、そこで話をそらすまねなどしようものなら倍も叱られる。夜遅くまで残されて型をやらされたという苦い思い出が多い。
 自業自得ではあるが、いつも一緒になってなまける関興が兄に教わる武芸だけは一度たりともさぼりの誘いに乗らず自分だけが叱られたので、余計にその印象が強く残っている。
 関興は大変利口だったので、学問所をさぼっても成績にはなんの問題もなかったし、なにしろ外づらが抜群によかったために、気分が悪くなって休んでいただのと適当な言い訳をしても教師は疑いもせず許した。それどころか、なんなら今日は家に帰って休みなさいと逆に言ったものだ。
 同じようにさぼって同じ言い訳をした張苞だけがどうしてか仕置きを受けるのだった。
 しかしそんな張苞も今では粗野な行動は男ぶりたいがための有意的なもので、内面は反して冷静な男に育っていた。
 関興も落ち着いて見られるが、それは見栄を根底とする理性が彼の気性を押さえつけているだけのことであって、頭に血がのぼってたがが外れてしまうと途端に感情に走ってしまうのだった。
 今もかなり激して張苞に怒鳴った。
「そんなよた話と一緒にするな。あの兄上が、この俺を、殴ったんだ」
 そこのところを関興は強調した。
「確かに大兄はそういうことはしなかったけどな」
「俺を殴ったんだぞ、兄上が。俺を、兄上が!」
 関興にとって、兄が暴力を振るったことでなく、自分に向かって厳しい態度を取ったのが大問題なのだ。
 関興は掌中の玉のごとく兄に大切にされてきた。王太子もかくやというほどもてはやされてきた。
 手を上げられるなど、天地がひっくり返るほどの衝撃だ。
 なにをしても誉められた。悪さをしても叱られなかった。
──いや、それは違うか。
 彼らは悪童の元締めだったが、関興だけは自分の評判が悪くならないよう立ち回っていたのだ。だから叱られる要素はなかった。
 ちなみにその分張苞が割を食わされてきたのだが、艱難が彼を玉にしたのかも知れない。
「それだけのことをしたからだろうが」
 少々あきれて張苞は言った。
「それとも、どんなまねをしても大兄はお前なら許すはずだとでも言うのかよ」
 その言葉に、関興はふさがっていた目が開いたように思った。
「そうだ! その通りだ」
 まさに関興の鬱憤を解き明かす言葉だ。
「どうもおかしいと思った。どうしてこんなに納得がいかないのか、今分かった。確かに殴られても文句言えないことを俺はした。それは自分でも分かるのに、兄上に叱られたのが理解できなかった。兄上にはとがめられないような気がしてた。どうしてか。どうしてだ」
「それだけ甘やかされてきたってことだろう。まあ、飲めよ」
 勢いよく杯につがれる酒を苦い顔で見ている従弟を、大兄もよくもこれだけ甘やかしたものだと思って見つめながら張苞は言った。
「大兄に言わせると、お前は完全無欠らしいものな。文武に秀で、忠孝に優れる国士無双の弟君だ」
「それで俺も困ってるんだ」
「今日のところは飲んで忘れろ」
「ふん」
 関興は不服そうに鼻を鳴らし、一息に杯を空けてから思い出したように言った。
「今晩のこと、兄上には言うなよ。兄上は俺はやけ酒を飲んだり愚痴を言ったりなんぞしないと思ってるんだからな」
「お前のその見栄っ張りがそもそもの原因なんだ」
──なるほどその通りだ。
 意外に的確な従兄の指摘に関興は感心した。
 彼は優等生体質が染みついていたので、自分には非がないという言い訳を、もしくは完璧に安全な立場を常に確保する習慣があるのだった。
 だから下準備もなく勢いで行動して詰んだ状況になってしまった今度の兄とのことについて大変困っているのだ。
 明白に自分に非があり、そして相手は怒っているに違いない。
 こうした場合どうすればいいのか関興には分からないのだ。
 そして偶然だが、張苞はこんな場合の助言者としてはうってつけだ。なにしろ考えて行動するということをしない男で、子供時分から始終途方もない悪事を働いては弁明の余地のない窮地に立たされてきた。あれでどうやって今日という日まで活路を切り開いて生き永らえてきたのか関興には不思議でならないほどだ。
 決してまねしたくない生き方だが、その一点の才能についてのみ関興は彼を尊敬している。
 そしてそんな天衣無縫な張苞と、石橋をたたいて渡る主義の関興が意外と鏡の表と裏のようにぴったり合って昔からつるんでいるのだ。
「こんな時、どうすればいい」
「うん?」
「お前ならどうやって謝る」
 不自由な奴だと思いながら張苞は自らの経験から助言してやった。
「平謝りだな。とにかく洗いざらい白状して謝るね、俺なら」
「全部」
 気が進まない様子で関興はうなる。
「ばれてないところを隠そうとするとどうもうまくないんだよな。わびに誠意が出ねえのかね。相手にも伝わるんだろうぜ、そういう気配がよ」
「…」
 関興は黙り込んだ。なんの策もなく自分をさらして見せるなど、彼のもっとも不得手とするところだ。それらしい言い訳をして、あの時は気が動転していたとか、本心ではなかったとか言い逃れることは百ぺんでもできるが、徒手空拳で相手に当たって砕けたら、その後一体どうする。
「とにかく、心の底からひたすら謝れよ」
「わ、分かった」
 関興は最後の酒をあおって威勢よく立ち上がった。
 どうやってわびるべきかと尋ねたところへとにかく謝れでは助言にもなにもなっていないようではあるが、しかし考えてみれば、許しを請うのに効率のよいやり方など求める方が間違っているのかも知れない。自分はいつもそうだったのかも知れない。
 なんにせよ自分の方法論ではもう手詰まりなのだ。思い切って、自分と正反対のこの従兄の意見を取り入れてみよう。人に謝ることでは並々ならぬ実績のある男だ。いつでも見栄を張って取りつくろって生きてきた自分とは違う。
 兄に嘘をつくのはもうやめよう。


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