|
関羽のけがも全快し、平常状態に戻ったかに見えた荊州軍だが、また新たな厄介事が陣中に勃発していた。
大勢において大したことでないと言えば大したことではないのだが、若将軍の様子がおかしいのだ。
大将の指揮不在の間、凛として代理を務めた若将軍。
最愛の父の負傷に心痛めながらも気丈に統率にあたった彼の姿は周囲の尊敬を集め、彼の株は一時的に著しく上昇したが、残念ながら今は見る影もなかった。
今の彼ときたら、なかばぼんやりとし、うつろで、それが激務からきた疲れというのなら分かるし同情も集まるのだが、かと思えば一人でにやついて、うっとりとなにやら妄想にふけってふふと笑い、ふと我に返って自分の頬を叩き頭を振ってようようしゃきっとしたかと思えば、また冒頭のぼんやりに戻るといった状態であった。
傍目にはいささか病的とも見える気配だったが、彼本人に尋ねたならば、心ここにあらざる状態になっても無理はないではないかと主張したろう。
彼は今まさに有頂天で、天にも昇る心地でいた。
一生涯たどり着けないとあきらめていた高みに指先が掛かったのだから。
彼は聞いてしまったのだ。兵卒たちがひそひそと話しているのを。
殿に代わって指揮を取られる若将軍は殿が乗り移ったようであった。いつもお優しい若将軍とは別人のようであり、畏怖さえ感じさせた。
そう、あれは、まるで殿その人のようであった、と。
関平が正気でなくなるのももっともなことである。
当然関羽はこの事態を大変遺憾に感じていた。ただでさえ、先日軽々しく息子をほめたことを後悔していた彼は、下士卒を中心に広まるこの評判がどうにか息子の耳に入らないように画策したものだったが、さすがの軍神も人の口に戸を立てられるほどには万能でなかった。
しかしもちろん、この浮かれ切っただらしのない息子を放置するような手ぬるい父では彼はない。
ある日、斥候に出た関平が、罾口川に移転した于禁にどう対処すべきかと報じてくるや否や、これぞ好機と嫌に生き生き目を光らせ、諸将の前で激しく面罵して言うのだった。
「このたわけめ。この秋の雨季に狭隘な谷に陣取った相手に取るべき手など一つだ。襄江を氾濫させて七軍を水に溺らせてやる。長年父に仕えてそんなことも分からんのか」
「ははっ」
関平は一応殊勝に平伏してこの怒号を聞いていたが、しかしながら、別段応えていないことは見るからに明らかであった。
なにしろ彼は経験値が違う。
父に叱られ続けること十余年。地獄の門番も震え上がるような雷声も、彼にはそよ風がささやくようなものである。
説教が父の趣味であり、父の好みをまっとうさせてやることは彼の職務でもあった。そして父のくどい説教を聞きながすのは最近では彼の特技となっていた。
慣れとは恐ろしいもので、長年の経験から関平は聴覚と思考回路を切り離すすべを身につけていた。耳では、父が叱り飽きて「もうよいから下がれ」と言うのだけを待ちつつ、頭の中は涼やかに保つことができる。
いやしかし、偉大な父のありがたいご高説を粗末にしていいのか。
いいのだ。
父の言うことは気分しだいでくるくる変わる。
今回のことだって、虫の居所しだいでは、山間地に陣する相手には崖上からの一斉正射に決まっているという返答もありえたのである。いや、関平が水攻めを提唱したならば、間違いなく父はそう反論したであろう。
だからと言って、そう口ごたえの一つもしようものなら説教は朝まで延長されるだろう。いや、これは勘ぐりなどではなく実験済みの事実である。
父の怒りは天から降る災厄のようなもので、凡人は通り過ぎるまで身を謹んで待つしかないのだ。
関平は既にその技を体得していた。ましてや、槍で突かれても気づかないであろう程に浮かれている今であれば、毛ほどの痛痒も感じなかった。
浅慮まことに申し訳ございませんとにこやかに言う息子に、関羽は内心歯ぎしりをしつつ、たたみかけるように、三日以内に小舟・筏を五百用意しろ、できなければ承知しないと言いつけた。
「三日…!」
これには関平だけでなく、同席していた部将たちもざわめいて色をなくした。
なにしろここは本拠地ではない。木材を手に入れるにも商人から買いつけるというわけにはいかず山から切り出してくるところから始めねばならない。
「到底無理です父上。せめて、あと三日」
「その三日の内に川は氾濫する。川に待てと言うつもりか。馬鹿げたことを。父が三日と言ったら三日だ」
「は、はい」
拱手の礼を取ると、力なく下がって行った。
──まあ、無理だろうがな。
そらとぼけて関羽はそう思った。
息子が動かせる人員と、このあたりの森林状態を鑑みれば、三日と言うのはいかにも不可能な相談である。あと三日欲しいという要求は妥当なところだろう。
──期限日に泣きついてきたならば、今度こそこっぴどく叱りつけてやる。
ほくそ笑みつつその日を待った関羽であったが、しかし。
「お待たせいたしました父上。どうにか間にあわせることができました」
襄江の入り江に並べられた小舟はざっとかぞえて確かに五百あった。残念なことに。
息子の目の下の隈を見るに、どうやら人足と共に三日間、不眠不休で作業したようである。
──なるほどな。そうきたか。
塩辛い笑みを関羽は浮かべた。
その間にも関平は、いささかやつれてはいるものの、三日完徹の後にもかかわらず、相変わらずにこにこと父に笑みを向けている。
──よくも成長したものだ、我が息子よ。
長年の加虐に耐え続けてきた彼は、もはや心身とも父の虐待をものともしないつわものになり遂げてしまったのだ。
──養子にもらいうけた当初は、自分の前に出るとろくに口もきけなくなるような内気な青年であったものだがな。
元々は赤の他人の自分達である。それが父子となり、家族となって一緒に過ごしてきた、その長い歳月を関羽は感慨深く思い返した。
そうして慈しみ深く、息子を見る。
それは、成長著しい息子に感服し、負けを認めた父親の温かい眼差しであったろうか。
もちろん。
もちろん関羽に限ってそんなことはない。
──まだ甘いな、平。
関羽はますます愛情のこもった目で息子をじっと見つめた。
そうされると、痛烈な罵倒にも昼夜を問わぬ肉体労働にもびくともしなかったはずの関平はきゅうにうろたえ、動悸と目まいを覚えた。
「あ、な、なんでしょうか。父上」
赤面し、おろおろと父に尋ねる。
「いやなに。お前のような息子を持って、実に自慢だと思ってな」
「えっ!? いえそんな、私は」
「親に向って謙遜なぞするものではない。いつも思っておるのだ、お前ほど優れた息子を得たのはなんとも父の幸運なことだ」
「お、お、おやめ下さい父上。そんな、そんなことをおっしゃるのは」
どんな厳しい叱責を受けたよりも当惑しうろたえ、関平はあとじさった。
「ふ、ふざけておいでなのでしょう? 先日のように。そうだとおっしゃって下さい。どうか」
「先日だとて父はふざけてはおらん。お前が勝手に大笑いしただけだろうが。父が心からお前を賞賛しておるのが分からんのか」
「ですがその、あれは、あの時は、ああでもしなければとても」
「お前は父の誇りだと言うのだ。うん?」
滝のように大汗をかき、へどもどして、父が優しく手を握ってきたのから手をもぎ放すと、叫んで関平は逃げ出した。
「も、もう聞くに耐えませぬ。どうかお許し下さい父上!」
後に残った関羽は大いに高笑いした。
──これであれもしばらくは大人しくなるだろう。閨でも面白い目が見られそうだな。
厳しい正面攻撃には耐えても、相変わらず、側面からの攻撃にはからっきし弱い。
飴と鞭、いや、九分九厘の鞭に一厘の飴を取り交ぜる技巧派の父と渡りあうには、まだ百年は早い関平だった。
|
|