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 時は深夜。関家の一室。
 関平は母と茶を飲みながら果物をつまんだりとのんびりとしていた。
「今年のみかんは甘かったですが、もう時期もしまいですね母上」
「夏が暑かったのがよかったのですよ。夏暑く冬が寒いと果物は甘くなりますからね。でもお前は大変だったようだけれど」
「まったく、去年の夏の暑さには参りました。死ぬ思いですよ」
 二人は性格が似ていて、他愛もないことを長時間しゃべっていてもお互い苦にならないのでよくこうして一緒に過ごす。
 共通の話題にもことかかない。もちろん、彼らの大切な人であるあの人物だ。
「殿はこのごろまたお戻りが遅いことね。今宵はいずこにおいでかしら」
「さあ。見当さえもつきませぬ」
 澄まして答える関平。夫人も別段この件に執着する気もないようだ。
 夫人と関平との間では、関羽の精力的な発展行動が時折話題にのぼりはするが、大抵、「川に住む魚の数を数えるようなものだ」と笑いあって結ぶ。
 数えることはおよそ不可能だし、知ったからと言ってその魚たちを洗いざらいどうかしてやりたいというのでもなく、知らないからと言って不自由でもない。
 その程度のことなのだ。
「でもあまり魚が増えすぎるのも考えものだわね」
「杞憂でしょう。住みよい川とも思われませぬ」
「まあお前、うまいことを言うようになったではないの」
 夫人はこの発言を大いに気に入り、くり返し笑った。
「殿は激流の大河のような方だものね」
「普通、川は大きくなるにつれて緩やかに流れるものなのですが、父上にはまずもって普通という言葉が当てはまりませぬから」
「本当にそうだこと! あの方ときたら」
 またおかしそうに笑うが、しかしそれがどうも大げさにわざとらしく、今夜彼女はそわそわとして落ち着かない様子だ。
 家人に酒を用意させるので当然自分に勧めるものだと関平が思っていると、もちろん関平にも差し出すが母はもう一つ杯を持たせるとなみなみ一杯を一息であおった。
「ふう」
 母は実は酒はめっぽう強いのだが、慎み深い性格なので常日頃は口にしない。
 関平が目を丸くして見守っていると、母は、ねえ、と差し迫った風情で切り出した。
「ねえ平や、私が今から言うことを意地の悪い母と思わないで聞いておくれだわね」
 関平はただうなずいた。言い出しづらいことがあるらしい雰囲気は察していたので心構えはできている。
「お前は妻を取ろうというつもりはないの?」
 なるほどと、関平は思った。
 母は、続柄は母親に当たるが、一方で父・関羽を共有する仲でもある。
 心優しい母のことであるから関平の将来を考えて、しかし口にするまでには窮したことだろう。
「殿にいくらお願いしても一向にあてにならないのですもの。平、お前ならきっと妻を大切にするし、子供もかわいがるでしょう。そういう者を持ちたいと、思いはしないのですか」
 息子が困った様子で無理に微笑するので、夫人は胸の痛みを強くした。
「もちろん、私もそういったことを考えはいたしますよ。母上のような妻が私にもあればと思います」
 母が自分を邪魔にして言い出したのでないことぐらい分かっていると、そうした意味を込めて彼は笑って答えた。
「ですが母上、考えれば考えるほど、無理なのです。私には──」
 続きの言葉が、夫人には分かるような気がした。
「私には、父上しか見えませぬ」
 彼らは同じ人を愛した。その人はそんじょそこらの英傑ではなく、ひとたび愛してしまえばもはやどうにもならず、脇目をするなどかなわず、生涯すべてをささげておつりがくるような、そんな男なのだ。
 ただ、関羽に嫁いで幸せな夫人は、息子にも同じ幸福をと願わずにはいられずにいた。
 つらい心持ちと誇らしさとで、夫人はしんみりとした。
「…。一つだけ。母や興たちに気を使っているのでは、ないわね」
「母親や弟にどうして気兼ねしますか」
 関平の答えは明快だ。
「そうね。分かっていました。ええもちろん、聞かずとも分かっていましたとも。分かり切ったことをわざわざ聞いたりして嫌な母ね」
「左様ですよ母上。罰としてもっと飲んで下され」
 言いながら母の杯にたっぷり酒をついだ。
「あら。でも殿が嫌な顔をなさるわ。あの赤い顔をもっともっと赤くなさって」
「この時刻にお戻りでないのですから今夜はもうどうせ戻られませぬよ。放っておいてどんどん飲んでしまいましょう」
「それもそうね。今年はお酒もいいできのようね。おいしいわ」

 夜半を回ると春の強い風が家をゆするようになったので、関平は家人を呼びつけると、夜回りするよう言いつけた。
「お前は今でも風の晩にはそうするのですね」
「ああ、そうですね。子供らももう風を怖がったりなぞしないでしょうが」
「そういえばあの晩も殿はいらっしゃらなかったわね。一向こういった役には立たないこと」
「もう、十年あまりも昔になりましょうか」

 まだ新野に住んでいたころ、あれも風がごうごういう晩のことだった。自室で眠っていた関平は家人に起こされた。
「若、若、奥様がお呼びです」
「ん? なに、母上が」
 珍しいことと思いながら着替えて母の部屋に上がると、子供たちがみな母に取りついて泣いているのだった。
「休んでいるところを悪かったこと。実はみな風を怖がってしまって寝つかれずにこの有様で、私は途方に暮れてしまって。乳母は里帰りさせてしまったし」
「そうだったのですか」
 関興は震えて、屋鳴りがするたびこの世の終わりのような悲鳴を上げ、関索は兄につられて泣き、まだ赤ん坊の姫は兄二人がやかましいので寝ぐずっている。
「心配いたすな。みなを脅かしたりして悪さをする風は兄様が退治してやる」
「け、けど兄様、風をやっつけることなぞ、できませぬよ」
 顔を涙でびしょびしょにしているくせにと、関平は笑みをもらした。
「お前は子供だから知らぬのだ。兄様はなんでもできるのだぞ。朝まで見張っているから心配いたすな」
 関平は手早く家人に指示して外壁に戸板を立て掛けさせて風を防ぎ、自ら部屋の戸口で番をしだした。

「平や、みなもう寝つきましたよ。お前もご足労でしたね。もうお休みなさいな」
 半刻もたったころだろうか、母がそう声をかけてきた。
「いえ。仕事柄、寝ずの番は慣れております。朝までと興に約束いたしましたから」
 弟たちの寝顔を眺めに部屋に入り、関平はかがんで弟の頬をなでた。よく寝ている。
「子はかわいいものですね、母上」
「殿の子と思えばなおさらでしょう」
「え? あの、」
「まあ、私にまで隠すことはないではないの」
 関平は照れ隠しに関興をひざに抱くと、母に並んで寝台に腰掛けた。
「手が疲れませんか。もう興ときたら重くて重くて、抱いてやると手が折れそうだわ。それでいて甘ったれなのだから」
「興はとてもよく父上によく似ておりますから、どんどん大きくなるでしょう」
「本当に、この子は余計なところまで父親似だこと。威張りん坊で参ってしまう。自分が天下一えらいと思っているのですもの」
「まるっきり誰かのようですね。この間、先だってなんだったか私が叱った時も、いけないことをしたとは認めたのですが結局難癖つけて最後まで謝ろうとはしませんでしたよ」
「困ったこと」
 そう言いながら二人は顔を見あわせて笑った。
 二人とも結局のところは、関羽によく似たこの子が一番かわいいのだ。

 関興が生まれて、二人は筆舌に尽くしがたいほど彼を甘やかした。
 ほめられるだけほめ、与えられるだけ与え、かけられるだけ手をかけた。
 過度の甘やかしが悪いこととは知りながら、そうせずにはいられなかった。関興はそんな特別な子だったのだ。
 そんな具合であるので、関興の性格はあながち悪い遺伝のみのせいとは言えず、およそ半分はその育ちのためである。
 しかし彼がやがて言葉を解するようになり、「かわいい」だの「かしこい」だのといった声が聞こえると自分が呼ばれたものと思ってそちらにいざり寄るようになって母と関平はさすがに己らのやりすぎを自覚し、子育てを改めたが、関興の優秀な頭脳に染みついてしまった内容は容易に訂正できず、ほぼそのままで大きくなってしまったというわけだ。

「あの興が次の正月には成人とは、月日のたつのは早いものだわね」
「ええ。興はもう、立派な大人です。先月などは泣けることを言ってくれました。成人のお祝いは、ふさわしい盛大なものにしなければ」
 昔話に花を咲かせ現在に立ち戻ったところで、夫人はぽつりともらした。
「ねえ、平。私が殿の前にも夫を持っていたのは知っているでしょう」
「はい、そんな話をうかがったことはございます」
「十年ほども連れ添ったのだけど、子ができなくて実家に戻されたのです。とうの立ったうまずめなどもう縁づくこともなかろうとあきらめていたのだけど、殿は構わないとおっしゃったそうよ。お前、なぜだか分かる?」
「…? いえ」
「自分にはもうちゃんとした跡継ぎがあるので子はなさずともよい、それに、変に若い母ができては息子も気兼ねしようから歳が行き過ぎているくらいの方がかえって都合がよいと。それで私をもらい受けて下すったのだそうよ」
「そう、だったのですか」
「殿はらしくていらっしゃるでしょう」
「ええ、本当に、そうですね」
 関羽は広く世に義人と知られ、あるいは豪傑と恐れられ、時には傲慢と評される。しかし母と関平だけとが知っている、ただの一人の男である関羽を思って二人は笑った。
 こうして互いに関羽とのことを語り、のろけともぐちともつかない話をするのは妙に楽しい。二人は大いに話し、痛飲した。

 そして気まぐれを起こして明け方近くに屋敷に戻った関羽が見たものは、無数の空壺に囲まれて、飲んだくれて酔いつぶれている妻と息子の姿であった。


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