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鬼の霍乱。
今関平が目にしている光景ほど、この言葉を的確に具現化したものもないだろう。
父・関羽が風邪を引き込んで寝ているのだ。
弟妹も面白がって見物にくる始末。
子供たちにうつってはと急ぎ追い返したところ、たまの病に気が立っているらしい関羽の癇にさわったらしく怒号が降ってきた。
「なんだ人を病毒のように!」
父が身を乗り出したのでその分関平は一歩下がる。
「その通りではないですか。父上に取りつくようなたちの悪い風邪を私に寄越さないで下されよ。兵の中にもおかしな風邪がはやっておって私も今休むわけにゆかぬのですから。父上が欠勤されるとならば余計な仕事も増えますし」
「それが病に苦しむ父に対する態度か」
「自業自得にございますれば、同情も失せまする。酒に酔ってつぶれて朝までうたた寝をしておれば、いくら父上でも風邪をひくこともございましょうよ。この寒いのに」
「むむ」
さすがに本人もいくらかは体裁が悪いと思っているらしい。父が大人しくなったので後は母に任せて出仕した。
関平が官府に出て父が今日は出てこない旨を告げると、あたりは騒然となった。
あの将軍がお体を悪くされるとは。しかも酒の飲み過ぎとでも言うのならまだしも、お風邪を召されたと。
これは凶兆に違いない。きっと成都の殿になにかあったか、東呉が攻め寄せてくるかのどちらかであろう。そうに違いあるまい。
てんやわんやの緊急閣議の結果、成都に使者を、陸口には密偵を出すこととなった。
酒のせいで風邪を引いたなどとはみっともないので黙っていた関平は責任を感じ、慌ててわけを話してとめたのだが聞き入れられなかったのだった。
父の風邪はなかなか治らなかった。
三日過ぎ五日が過ぎ、市井に蔓延していた風邪も収まったというのに父はまだ寝込んでいる。随分よくはなったのだが根治しないのだ。
体が温まるという薬草を馬良がわざわざ職場に持参して分けてくれたので、関平は押しいただくようにしてありがたく受け取った。
「将軍のお加減はいかがですか」
「嫌味を言うお元気は相変わらずありますので、心配いりませぬ」
めったに手に入らないという希少な薬草を馬良が四方八方に人をやってまで手配したのは、一つにはもちろん純粋に関羽の体を心配するのもあるが、関羽がいつまでも寝込んでいるようだと人心が騒ぐので、土地の名士の義務感からだった。
関羽の病はすでに多くの人の知る所となっているのだった。
関平が急ぎ家に戻ると、父がふてくされて薬も飲まず食事にも手をつけないと言って母が困り果てていた。
「それにねえ、平や」
母はふっとため息をつく。
「もうじき春節でしょう。殿がこんな様子なのにお正月の支度などしていいものかしら」
そう尋ねながら反応をうかがうように横目でちらりと関平を見たので、その本心がよく分かった。
本当に言いたいのはそんなことではない。なにも正月の段取りなどが気がかりなのではない。
世に二人とないほど丈夫な夫を持って幸福だった母は、万年も生きるかと思っていたその人が病気に掛かることもある普通の人だと分かって心細くなったのだ。
関平にはその心持ちに痛いほど同情できたので、努めてほがらかに言った。
「不摂生で引いた自業自得の風邪ですから、父上は一人で寝かせておいて盛大にお祝いいたしましょう。子供たちも楽しみにしておりますから、ごちそうを作って下さい」
「そう。そうね。そうしましょうね」
ほっとして去っていく背を見送って、母と同じため息を関平もついた。
人前では虚勢を張っても、一人になればどうしても肩を落としてしまう。
最初は確かに、先月寒さに弱い振りなどして自分をだますから罰が当たったのだと得意になって父に言ったりしたものだったが、なかなか回復しないので関平も次第にしおれてきた。しかし、家族や幕僚には自分まで力を落としているところは見せるわけにはいかない。
自分は父の代理なのだ。役者不足は分かっていても役目を勤め上げなければならないのだ。
部屋に入ると父は布団をかぶってふて寝していた。
豪の者である父は自分が風邪ごとき負けたのが不愉快でならず、体が病気であるばかりでなく心がねじれているのだった。
「父上。馬良殿が薬草を分けて下さりました。今煎じていただいていますから召し上がって下さい」
「いるものか」
「そんな風ではよくなるものもよくなりませぬ。父上とてもう──」
お若くはいらっしゃらないのですから、と口から出そうになったところでとどまったが、父は気づいてしまったろう。眉間の立て皺が一本増えた。
「ふん。どうせ私ももう老いぼれだ。この関羽ともあろうものが年老いて風邪で寝込むなど、巷間の者は指さして笑っておろう。いっそこのまま死んでしまって徹底的に笑い種になってやろうか」
「父上!」
それは関羽一流の減らず口だったが、父がたわむれにも死という言葉を口にし、それだけ言う間にも咳き込むのを見ると関平は胸が痛み、足元がおぼつかないほど心細くなるのだった。
「さあさあ、とっとと食事を召し上がって薬を召し上がってお休みになって下され」
「昼間嫌と言うほど寝ておるのだ。眠れるものか」
「それなら回復しておいでの証拠です。明日の朝にはきっとよくなりますから大人しく言うことを聞きなさい」
ぶつぶつ言う父をなだめて用を済まさせ、横にならせた。
この薬湯の効き目は目覚ましく、翌朝には元の通りの倣岸な父に戻ったのだが、その晩関平は父につき添ってまんじりともせず、考えごとをして朝まで過ごした。
関平はここ数日は仕事の手が離せる時間はずっと父のそばについていたが、それは看病のためだけではなく、風邪はうつせば治ると聞くので父の風邪が自分に取りつかないかと思ったのだ。
しかし残念なことに、心身ともに健全を誇り、物心がついて以来風邪を引いた記憶がない関平にその兆候はいつまでたっても出なかった。取り分け、関羽に取りつくようなひねくれた風邪は関平など寄り代にはしたがらないのだろう。
とかく子供のころから関平は丈夫だった。
ひ弱だった兄と比べられるがために際立ってそう見られるのだと関平は思ってきたが、どうも公平に世を見渡しても自分は格別に頑丈にできているようだ。
そのためか、得物を持って人と切りあうこんな職業についていながら、人の生き死についてあまり深刻に思いわずらったことがなかった。
しかし、父の戯言に影響されたのもあるが、そんな関平としても父がこう長く患うようだとなにかと考えないではない。
父はよく寝ている。だいぶよくなったようだ。布団を直してやりながら関平は続けて考えた。
いつか「その日」がきてしまったならば、秘密裏に伯父に使いを送り、成都が対応を決めるまでは他の幕僚とはかってこの地を持ちこたえなければならない。
父の威光で他国が手出しを差し控えているこの江陵を、わずかな期間と言えど自分は守れるだろうか。
いや、できるできないの問題ではない。やらねばならないのだ。父の息子たちが成長するまでの間は自分がこの地と家族を守るのだから。
父の弔いをし供養をし、そして上の弟が一人前に育ったら自分の役目は終わりだ。
──ああ、違う。そうではない。
そこまで考えて、関平は勝手に進む思考を振り払った。
こんなことを考えたいのではない。
母が濁して本当に言いたいことを避けたように、関平は今自分が考えねばならないことに触れたくなかった。
こんな風にすらすら絵空事を描けるのは現実味がないからだ。
関平は実の所いまだに、必ずやってくる未来を信じられないでいるのだ。
いつの日か、父がこの世の人ではなくなる時のことを。
この度のことは間違いなく単なる風邪で、少々こじらせたくらい父の体力なら心配するには及ばないが、父もいつなにかあってもおかしくない歳だ。世間では五十まで生きればまずまず上等と言われるところ、父は次の正月で五十五になる。
千軍万馬に匹敵する父と言えども不老不死ではない。自慢のひげもなかば霜を置いたし、実際こうして風邪を引いて寝込んでいる。
だから頭では理解しているのだが、しかし心の中の一番頑固で正直な部分が自信満々言うのだ。
父上が死ぬはずはないと。
そして関平はいつか自分が父のそばにいられなくなる時のことを想像できずにいるのだった。
薬がよかったのかぐっすり眠っている父を見る。
いつの日か、こうして目を閉じたまま、もう二度と見開くことがない日がくる。
二度と声を聞くこともできないし、自分を叱ってくれることもなくなってしまう。
──そんな日が、本当にくるのであろうか?
想像するだけで気が滅入る。
顔を上げると明り取りの格子から月が見えた。細い月にもかかわらず、雪の照り返しで明るい晩だ。
──月が太古の昔から変わらず空にあるように、今の幸せが永遠に続かないものだろうか。
いや、それこそ愚かな考えだ。そもそも自分は今のこの乱れた世を正したい、変えたいと、そう思い武人を志したのではないか。
──そして武を学んでいなければ、私は父上と縁を結ぶこともなかったのだ。
命とも思うこの人と出会わなければ、自分の人生はどうなっていたのだろう。
世の多くの人は、自分がなんのために生まれてきたのかを知ることはないのだという。
しかし自分は知ってしまった。父に出会って、父に仕えるために自分はあるのだと知ってしまった。
人を己のすべてと思う、そんな人生を世の人は貧しいと思うだろうか。愚かと思うだろうか。しかし自分の幸福は万の言葉にしても言い尽くせない。
父に尽くす自分を犠牲的精神の持ち主のように人は言うが、それは思い違いだ。
父がそこにいて、それをまぶしく見上げるだけで、自分にはもう他になにも欲しい物などないのだ。
しかしだからこそ思う。
父は関平の生きる意義である。それを失った時、自分はどうなるのだろう。その後自分はどうするのだろう。
人は生きがいを手に入れられずとも、追い求めるだけで生きていられるのだそうだが、しかし、自分のようにひとたび人生の意義を手にしまった者が、それを失って後その亡失をどうして埋められるだろう。
父に出会わなかった可能性を思い描けないように、父がいなくなった後の人生も想像の域をこえている。
遅い月がやっと高く昇ってきて、明かりが嫌に目にしみた。
父に出会ったのが人生の岐路だったように、いつしか自分は第二の岐路に立たされる。
その日のことを、関平も考えないではないのだ。
炉の白くなった炭が軽い音を立てて崩れたので、関平は炭を足した。
なんとはなしに、炭をつついてみる。
自分はいつでも父に頼ってきた。そして厳しい父が不思議と、そんな依頼心が強い点に関しては自分を叱ったことがない。
それはなにかの暗示のようにも思われた。どういうわけだか関平には、父亡き後の心配など自分には無用だという予感が心の片隅にあるのだ。しかも随分と以前から。
そして、父も自分と同じ感触を持っているのかも知れない。
自分は父よりそう長く生きられないような予感。それもあって、なおさら父を失うことと正面から向きあう気力を持てないでいる。
関平もこれでも戦場を渡り歩いてきた将であるからあてもない勘など頼りにはしないが、だからこそ、勘が馬鹿にできないものだとも知っている。
はなはだ壮健で、まだ若輩の部類に入る自分がそう早く死んでしまおうとは思われないし、父の後を追おうという悲壮な考えは少なくとも今のところは持っていないのだが、その時がきたらそういう気持ちになるのだろうか。それを暗示する予感だろうか。
自慢にはならないが勘が鋭い方だとは自分でも思わない。自分の第六勘というものはことごとく外れる。だから虫の知らせじみたこの勘のことも深くは考えないのだが、そんな予感がずっと前からあることはあるのだ。
父の寝顔を見ながら、月が朝日の明かりの中に薄く消えるまで関平は考え続けたが、結論はなにも出なかった。
予感は意外な形で的中し、関平は父と時を同じくして鬼籍に入るのだが、それはまだ先の話になる。
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