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 すれ違う者たちが口々に新年の祝いをかけてくるのにぞんざいに返しながら、関羽は回廊をずかずかと大股で進んで息子の部屋にたどりついた。
「関平ッ!!」
 そして乗り込むと共に一喝した。
 剛力の関羽が力任せに開け放ったので戸板にひびがいったその音がむなしく響いた。

 昨晩の大晦日、息子は義弟・張飛とその娘・星彩、そして馬超と飲んでいた。
 この蜀において、酒を飲ませたら指折りにまずい人選と言えるだろう。
 一見星彩が歯止めになりそうだが、彼女が父親から受け継いだものわずか二つのうち一つは武才でもう一つは酒癖だ。
 最悪の組みあわせにさしもの関羽も手のつけようがなく、からみ上戸の息子がその時既に酔っ払って父と飲みたいとせがむのを見捨てて先に引き上げた。
 朝になってみると、息子がなかなか新年の挨拶にやってこず、義兄の所にも参上していないという。おかしいと思い周囲に消息を尋ねてみれば、どうやら明け方まで飲んでいたようだ。
 この日の短い時期にそれでは、つまりついさっきまで飲んでたと、そういうことだ。
 残りの三人はなにごともなかったかの様子で慶賀の宴にいた。しかし彼らは普通の人間ではないから比べても甲斐はない。
 その顔ぶれではそろそろお開きにという意見はどこからも出るわけはなく、炭が切れても足そうとする者もなく、外は吹雪いているという極寒の晩につまみもなしに大酒を飲んで雑魚寝した。
 それで風邪を引いてひっくり返ったと言うのだ。
 風邪で済んだのが不幸中の幸いだ。
──この、馬鹿息子が!
 関羽は苦々しく思った。
 単純──もとい、純粋なこの息子は祝い事を大いに好み、昨日も喜んで飲んでいた。
 正月元旦からけじめのないまねをしおってと、とっくり叱ってやる意気込みできたのだが、自分が呼べば瀕死でも起き出すに違いない息子が盛大にうなされているので憐れのあまりその気もうせた。
 楽しみにしていた振る舞い酒もご馳走もおじゃんだ。
 しかたなく関羽は看病についてやった。親の務めだ。そして馬鹿な子ほどかわいいと言うのは真理だ。そういった意味では彼は折り紙つきに親心に訴える息子だ。

 日が中天に差し掛かるころ関平は目を覚まし、枕元で自分を見守る父を見た。
「父上…ですか」
 熱が高くて朦朧とし、関平には父がぼやけて見えた。
「気分はどうだ」
 浮かれて酒を飲んでいる間にも関平は、これは父に後で叱られるなとは思っていた。しかし彼はみんなでわいわい言って飲むのがこよなく好きで、しかも酩酊した思考回路では父の怒りの恐ろしさを正確に解釈できず、また、途中退場を許してくれる面々でもなかったのでこのような結果を招いてしまったのだった。
 しかし覚悟はできていた所に逆さまに優しく言葉をかけられた。
──なんだ、夢か。
 なんのことはないではないか。すぐ納得がいった。
──だがおかしいな。拙者がこのような夢を見るとは。あまりに現実とかけ離れている。
 彼は身の程をわきまえており、想像力というものが自分にまったく欠けているとよく知っていた。
 日ごろ見る夢も、日常と大差ないいわば夢のない夢だった。日中の出来事をそっくりそのままくり返し見るのが普通で、彼はいつも父に都合二度同じことで叱られる。
 ところが、関平がぼんやりそうしている間にも父は布をしめして首筋を拭いてくれている。
 こんな、自分には思いもよらない父が出てくる夢とは不思議ではないか?
 叱られないどころか父に優しくされる。ありうべからざる幸福だ。まるで極楽だ。
──うん? 極楽?
 思い当たってみればこの感じ、話に聞く、いわゆるあの世というものにぴったりくる。
──ふわふわとして霞がかったようで、どことなく揺らいで見える父上。声は遠く近く聞こえて、それに、不思議にぽかぽかとして、とても暖かい。
 それはいずれも風邪の諸症状だ。暖かいのは熱が下がり始めたからだ。
──ここは極楽なのだろうか。夢ではないのか?
 夢かどうか調べる方法など知れている。
「お手数ですが父上、拙者の頬をつねって下さい」
 夢ならば痛くない。明快だ
 慣れない病に混乱しているのだろうと、気つけに関羽はその頬をぎゅうぎゅうつまみ上げてやった。
「痛っ! もう結構です! よく分かりましたから」
 気の毒に頬ははれてしまったが証拠としてはちょうどよかろう。
「やはり夢ではない」
「しっかりせんか。夢でなどあるものか」
 父がそう言うのならこれこそ間違いはない。
──すると、拙者は死んでしまったということか。
 彼は元来、大変な短絡思考だった。よく言えば善良。悪く言えば短慮。
──みんなで飲んでいて、酔いが回って引き上げるのが面倒になりそのまま寝てしまったのだったな。
 その前に、庭に出て雪合戦をした気もする。関平が一人雪まみれにされせらたのは言うまでもない。
──ではきっと凍死したのだ。こんなにも馬鹿馬鹿しいことで死んでしまうとは思いもよらなかった。
 人生とはなんとあっけないものだ。
 彼がふっとため息をついた。

 結論が出たので一応の落ち着きがついて関平は辺りを見回した。
──案外、生きている時と変わらないものなのだな。
 部屋は家具の配置まで元の通り。布団の柄までそのままだ。違っているのは父だけだ。
 自分が最も未練を残した部分だからなのだろう。
──大変な不孝を働いてしまった。
 死んでしまったのは自分の不注意でしかたないが、犯した罪を思うと胸が詰まりそうに悲しい。
「拙者は親不孝者です。このような愚行しでかしてしまいました」
「どういたした」
「申し訳ございません父上! 先立つ不孝をどうかお許し下さい」
 涙ぐんでいたかと見れば、そう言っておいおい泣き出す。
──先立つだと? 死んでわびるとでも言うつもりか。
 息子の気性を父親はよく知っており、また、それが時に極端に過ぎるきらいがあるとも分かっていたのが曲解を助けた。
「そう嘆くな。繰り返さねばそれでよい。今回のことは父はもう咎めん」
 父のなんと大きいことか。この人には、人一人の一生など連綿と続く歴史におけるささいな一片に過ぎないのだ。
「お許し下さるのですか父上。これからも父上の息子でいて構いませんか」
 彼の言う今後とは、つまり来世だ。
「無論だろう」
 父は力強く請けあった。
──酒を飲み過ぎた程度で勘当は行き過ぎだ。
 謹厳な父としてはきつくきつく叱ってやるつもりだったが、こうも深く反省されてはなだめ役にまわるしかないではないか。
──打算でこのような態度ができるこいつでもなし。
 打算どころか、彼の思考はいまや途方もない所にまでたどり着いている。
「しゃんとしろ。過ぎたことだろうが」
「父上のおっしゃる通りです」
 悔やんで戻れるものではない。なにしろもう死んでしまっているのだから。

「腹が減ったろう。粥でも持たせよう」
「いえ、平気です」
──極楽とは聞きしに勝る所だな。腹さえ減らないとは。
 それは風邪を引いているから食欲がないだけだ。
「他に欲しいものはないのか」
「ひとつもありません父上。満ち足りています」
 どうも言うことがおかしい。まだ本調子でないらしい。
「遠慮せず申せ。こんな時ぐらい、聞いてやろうではないか」
 こんな時。つまり死んでしまった今さらということか。
「そういうことでしたら、」
 口に出しては照れくさくて言えないが、関平は布団から手をそろと伸ばすと、父の手を握った。
 硬い大きな手。
 それを引き寄せて自分の頬にそえる。
「一度でいい、こんな風にしてみたかったのです。まるで夢のようです」
「大げさな奴だ。それに夢ではないと言っておろうが」
「そうでした。しかし、拙者には大げさでもありません。こんなことができるのなら、今回のような失敗も悪くないです」
「父がいつまでも甘い態度でいるなどとは思うなよ」
「そうなのですか」
 息子がさも意外そうに言うのでたしなめる。
「当たり前だろうが」
 関平には不思議でならなかった。そういう制度なのだろうか。始めのうちだけよい目を見させてもらえるのか。
「なにしろ拙者はこちらの事情には一向に不案内なものですから」
「なに?」
 なにが言いたいのか。うわ言か。
 熱が上がったかと関羽は額に手の平をかざしたところ息子がその袖を意味深に引いた。
「甘えたまねをしおる」
 にやりと笑う。
「ですが父上、お目こぼしいただけるのでしょう?」
「ふん、今はな。しかたのない」
 関羽は息子の唇をふさいでやった。
「拙者は幸せ者です」
──死んでよかった。
 まだだいぶ熱があるようだ。
 しかし唇に触れただけで父は引こうとするので彼は物足りなく思った。
──この父上は優しいだけでなく控えめな方だな。
 それは単に、見るからにたちのわるい風邪をうつされたくないだけだったのだが、息子がしがみついて離さない。
「風邪を引き込んでおるのだから、今日のところは大人しくせよ」
「いいえ。風邪などではありません」
 なにしろ死んでいるのだから、病など無縁に違いない。
 どうして引きはがしてくれようかと考える関羽の脳裏にいらぬ知識が浮かんだ。
 熱があると、中が熱くて具合がいいとか聞く。
──ふん。してみればよい機会よ。試してみるか。

 香油を多めに取って手の平でもんであたためてから入り口に内側に塗りつける。
「ん…。うん」
 人差し指から薬指の三本が、指の腹で中を丁寧に探る。
「ああ…」
──背筋がぞくぞくする。
 それは寒気だ。
「とても気持ちがいいです父上。お上手なのですね」
「お前にほめられようとはついぞ思ってもみなかった」
 やはり正気でないと見て、冷やさないように、腕に抱きながら進める。
 今でさえわけの分からないことをわめいて風邪が頭にまわっているらしいのに、これ以上悪化させたら厄介だ。
 しかし関平にその意図が伝わっているはずもない。
──幸せだ。
 二人の思惑がまったくずれたまま、膝を立てさせ関羽はゆっくり入り込んだ。とけるほどに熱い。
──これは、なかなか。
 関羽は思わず笑みを浮かべた。
 ほほえみかけられて、関平は幸福を極めたと思い、父の背にすがりついた。
「そうせっつくな。お前にもよくしてやろう」
 ほんの返礼だとはさすがに言わなかったので誤解は深まる。
──なんと親切なのだろう。
「はあ、はあ。うう…、父上、いつまでも、お慕いしています」
──いつまでも? どうにもわけが分からんな。
 息子の首筋に腕を回して支えてやりつつ、肌をゆっくりと、隅々までなでる。単なる寒さしのぎだが、そんな風に丁寧に扱われたためしのない関平は、なんと愛情のこもった愛撫と陶酔した。そして父親の方は無情なことを考えていた。
──やりにくくてかなわん。
 しかし自分のせいで悪くさせては、関羽にも一応は存在する親としての面目が立たない。
 感極まった息子が力の限りすがってくるのでますます動き辛く、関羽は思ったほどいい目を見ないままで終了したのだった。

 父はずっとそばについてくれている。
──なんでも望み通りにいくのだな。
 現実を言えば、新年を祝う宴会もたけなわで今になって参加するのも間が悪く、他にすることがないからとどまっているだけだ。
 現し世の父には申し訳ないものの、ここにきてよかった、かなうならばとこしえにここにいたいとまで関平は思う。
 その上、自分はいつのまにか着替えも済んでいる。
──なんと便利だ。瑣末なことはしなくていいのだ。
 事後朦朧としている間に父が手ずからしてくれたなどとは今更もちろん考え及ばないのだが、しかし、どうにも都合がよすぎるために彼のおめでたい思考もさすがにひたひたと不安を感じ始めた。
──いくらなんでも、おかしくはないか。
 あまりにも話がうまい。
──考えてみれば、逆縁の不孝を犯して賽の河原送りになってもおかしくない拙者がこんないい目を見ることができるはずはない。
 元々めぐりがいい方でもないのに、その上まだ頭痛がして回転が良くない頭で考えるので、彼の思考はますますあさっての方向を向いた。
──ひょっとするとこれは、極楽どころかむしろ逆だろうか。
 それはありうる。なにしろこの父が怪しい。
 魔は人を魅了する姿で現れるという。自分をたぶらかすのに、父の姿ほどうってつけのものはないではないか。
「さては──あなたは父上ではないのでは? 一体何者なのですか」
「なにをたわけたことを。気を強く持たんか」
 具合が悪いというのに安静を破ったりなどするからついに病が膏肓に入ったかと危ぶんで関羽は言う。
「父上がこれほど優しいはずはない! 日が西から昇ることは万一あるかも知れなくとも、こんなわけはない」
「なんだと!? なにが言いたい」
 まがい物の父を見せて不貞を犯させるとは、ここは地獄か畜生道か。いずれにしろ、
「ここは極楽などではないのです!」
「当たり前だ!」
「やはり! いくら姿形が同じとは言っても中身がこれほど違うものを父上と取り違えてしまったとは。不覚!」
 ここは地の底だとたちどころにして悟った彼は膝をついて天井を仰ぎ地上の父にわびる。
「不出来な拙者をお許し下さい、父上!!」
「いい加減にせんか!」
 つきあいきれなくなった関羽が遠慮なくびんたをかましたので、そこで関平は伸びてしまった。

 回復して次に目を覚まし、自分は死んでなどいなかったとようやく関平は納得した。そして同時にここは極楽などではあり得ないと知った時の彼の落胆といったら見ていて気の毒なほどだった。
 それ以来、彼にとって死は忌むべきものではなくなったとか。


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