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外は吹雪。石牢の冷たさは骨まで凍りつくようだ。
孫権が検分にやってくるのをこうして待たされる間することとてなく、自分に残された時間も後わずかと思えば、関平の脳裏にはどうしてもさまざまなことが思い起こされた。
麦城に残してきた同僚は生死も知れない。長く過ごした江陵のこと。主である劉備。追憶は次第に逆のぼって、そして、思い出さないようにと長年努めてきた、生まれ育った家にもやがて感傷は及んだ。
自分から捨てた家。"捨てた"とは行き過ぎた表現だが、関平は自分にそう言い聞かせてきた。
孝行者と人は自分を評して言うが、むしろ逆だろう。わがままを言って家を出たのだから。
しかしここに来て、無性に生来の家族が懐かしく思い出された。
──父上母上はまだご存命であろうか。兄上には先立つことをお詫び申し上げねばならぬ。
いつだったか、別れたころの兄そっくりになってきたと鏡を見て思った。
それももう十年あまりも昔の話だ。
兄はどのような人物になったろう。子供があれば、もう大きくなっていることだろう。
そして自分のことを、まだ怒っているだろうか。
「支度はもう済んだのか」
明朝ここを出てゆく弟のところに、どうにも足をとめられず関寧はやってきた。
「はい。持ってゆくものとて特にはございませぬから」
部屋は構わず片してもらうようにと関平が父に言ったのを関寧は知っている。
なぜそうさばさばしていられるのか。ほとんどいらだって思った。
明日を限りに、もう二度と会うこともかなうまいに。
「ではもう休んだらよい。朝が早いのだから」
言いたいのと違う言葉だけは速やかに出てくる。
「そうだ兄上、久方振りに一緒に休みませぬか」
弟はいっそ朗らかに、そう誘った。
母の仕立てたそろいのひとえに袖を通して一つ布団に入れば、どうしても彼がかけがえのない弟であることを思わずにはいられない。
たった一人の弟を、このまま送り出していいのだろうか。
今のままでも不自由もなく生きていけるのに。今のままなら、平和に生きていけるのに。
徴集されて仕方なく行くのならともかく、なにも好き好んで、関わるいわれもない戦に踏み込まずともよいではないか。
思考は悪い方向へ加速し、関寧はそら恐ろしい気分に迫られた。
──今ならまだ、翻意できる。
「平、少し…」
少し話をせぬかと言いかければ、関平はもう寝息を立てていた。
ようやく奮い起こした気持ちをくじかれては、これでもう自分は切り出すことはできなかろう。
こんな晩によく眠れるものだと、関寧は起き出して細く明かりをともした。
神経質な自分と比べればと弟は太平楽と言ってもよく、そしてどこかしら肝が座ったところがあった。
──今夜はもう眠るのはあきらめて、物思いに費やそう。
なんの心のつかえもない様子で眠る弟の寝顔を関寧は眺めた。
村では秀才で通った関寧だったが、都会の学問所に入って自分の才能を取るに足らないものと知った。
それでも学を捨てないのは学を愛するがゆえではなく、現状を変える怖さから、ただそれだけだった。それが関寧の性分だった。
そうやって自分が二の足を踏んでいる間に、弟は出会って数日の人に運命を見出してしまった。
家にはいささかの土地があるから、男子を二人置くわけにはいかない。分家して家を傾けないために弟がいずれどこかにやられるのは世の習いで始めから分かっていたが、こうも突然。しかも、跡継ぎを欲しがっている地主は近隣にいくらもあるというのに、なぜよりによって武の道など志す?
意地悪い気分からではなく、弟の才能を関寧は危ぶんだ。高々少しばかり剣の腕が立つといって、苦労らしい苦労も知らない所詮田舎者ののんびり屋の弟が、世に交わればきっと辛い挫折をしよう。なぜ今の安穏な幸福のままでいられないものか。
しかし浮かない理由はそれだけでなはい。自分の苦労性のせいだけではなく、今度のことはなぜだか胸騒ぎがする。この縁組はきっと良好な結果には終わらない。
父がとめればいいと関寧は強く願っていたが、年老いた父は末の息子を手放すのに不思議と躊躇ないようだ。
とめるべきだと自分には分かっている。しかしとめる言葉がない。
自ら踏み出す勇気を持ち合わせないように、人の生き方を変える度胸も、自分にはない。
一番鳥が鳴き始めたので関寧は弟の隣に横になり、眠ったふりをした。思い悩んだことなどなかったことにするしかなかった。
共に駅亭まで見送ろうと関定が勧めたが、関寧はとどまった。
──兄上はやはり反対でおられるのだな。
なににつけても応とも否ともはっきりと口にしない兄であるから今回も口出しはしないが、内心喜ばしく思っていないと関平には分かるのだった。両親でさえしかとは気付かないことを、二人きりの兄弟である関平だけは。
そうして別れの言葉を交わすきっかけを失ったまま家を後にした。
吹雪はまた一層強まったようだ。
強風に応じるように、関平は心を立て直した。
家を出る時、自分の行いを悔やむことは今後すまいと、そう誓った。自分の意思で決めた道なのだから。
その通り生きてきたつもりだったが、兄の反対をうやむやにしたことだけはしばしば関平の心を重くした。
もし今のこの境遇を知ったら、どんなにか嘆くだろう。
実際にいつの日か、自分の末路は兄の耳にも届くだろう。
──いいや。それでも兄上はきっと分かって下さろう。 関平はふと思った。あのまま故郷で暮らしていたら、自分は幸せだったのだろうかと。
そして一瞬でもそんなことを思った自分を愚かだと思った。
こうして父について生きて、苦しいことも多かった。思っても報われず、それは数え切れないほど苦しんだ。
しかし苦しみを知らない分幸せであることに、そんな空虚な人生に、なんの意味があろう。
単純に甘いだけでなかった自分の一生は、人のそれと比べるべくもない満ち足りたものだったはずだ。
いささかむきになって自分に言う、そんな自分をいささか苦く思った。
思いを断ち切って顔を上げると父のやつれた面持ちが見える。こんな父を知りたくはなかった。しかし、自分だから父もそんな姿をさらすのだろうか。
ここには自分と父しかない。最後の最後まで父に従うのは自分一人だ。
「寒くはございませぬか父上」
「──いや」
自分に許された特権を思いながら、いつも以上に寡言な父を場違いに満ち足りた気分で関平は見て、肩から落ちかけた父の外套を直そうと腕を伸ばした。
その息子をどう受け取ったのか、関羽の中でなにかが切れた。
「平!」
初めて見る追い詰められた父の表情に関平はぞっとして身を引きかけたが、狂人のような一心さで関羽は息子の腕を掴み、しゃにむに抱き込んだ。
「平、平…!」
初めて受ける抱擁が胸に痛かった。すっかり気が弱くなった父には、もう自分しかないのだ。
地位に栄誉、部下、そして生命。すべてを失いかけている父は今になって、いや、今だからこそようやく関平だけのものになった。
自分の運命の皮肉を関平は呪い、耐えがたい思いを奥歯でかみしめた。ひとしきりそうしてから、すべての苦しみから父をかばいたいと抱き返した。
「お気落としめさるな父上。平がおります。父上には、平がついております」
──兄上、どうかお許し下され。思い定めたただ一人の人につき従って、平は死にます。
その時同じ雪を関寧は見ていた。
河北の乾いた雪は音もなく落ちて、関平が見る厳しい風雪とは似つかないものだったが、それでも雪に変わりはなかった。
そして、地に落ちた雪が溶け、いずれは川に流れて元の天に帰ることを、我知らず関寧は考えていた。
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