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漢の建安二十四年冬十二月、上庸──



 劉封が当地の守備に就いて数ヶ月。彼の力量からすれば、この狭隘な土地を治めることなどたやすかった。
 それよりも面倒なのは一緒に赴任した孟達だ。このところしきりに魏に投降しようとほのめかすのは、劉備に重用されていないのを本人も分かっているのだろう。そして小人ならではの鋭敏さで、劉封も同類であると察しているのだろう。
 ここは辺境の地。要地を守れが聞いてあきれる。ていのいい左遷だ。自分も孟達も。
──だからと言って、劉璋から父のもとへ来てまだ十年もたっていないのにまた次か。どこかに安住の地があるとそう信じたいのか。お前のような男でも。
 今日も孟達と軍議中辟易している劉封の元に、番兵が進み出た。
「劉封将軍、関羽将軍の使者がお着きになりました」
「関羽将軍から私に? まさか」
──関羽将軍が私に用があるはずがない。
 劉封は心でそう付け加えた。
「関平将軍が直々にいらっしゃったので、間違いはございませぬ。それが、関平将軍はひどい有様で」

「一体どうなさったというのです。傷だらけではございませぬか」
 正堂に出てみれば確かに関平。着替えと食事を用意させるよう近従に言いつけた劉封は見るなり歩み寄って労をねぎらおうとしたが、その手は突っぱねられた。
「私のことはどうでもよろしい」
 気が急いて関平はけんか腰だった。
「麦城にて父とその軍勢が孤立しております。劉封殿におかれましては至急兵団を編成し救出に向かっていただくようお願い申し上げます」
 息せき切って言い募る。
「なにとぞお急ぎ下さい」
 他意なく忠実な相変わらずの彼に、劉封は鼻白んだ。
「孟達をここへ」
 孟達が反対することを分かっていて呼び寄せた。

 当然、三者会談は歩み寄りのないまま物別れに終わった。
 立ち去る孟達を劉封は冷ややかに見送る。
──あいつも底が見えた男だ。さて。
「関平殿、孟達もああ申しております。ここの守将は私であるから、一存で兵を動かせないこともないが、」
 人払いをしてから続けた。
「それなりの見返りがなくては。例えば──」
 劉封は関平の腰を抱いた。
「関羽将軍の御子息が私にその身を任せてくれでもすれば申し分ない」
「お戯れを」
 冷淡にさえぎる関平に劉封はすり寄った。
「まんざら知らぬ仲でもありますまいに」
「劉封殿、そのことは…! あの時は私は」
「どうかしていたとおっしゃるか」
 そう言いながらも劉封は既に関平の胸元に顔を埋めている。
「関平殿らしくもない冷たいお言葉ではないか。仮にもしとねを共にしたこともある私に」
 劉封の笑う息が首筋をくすぐる。
 関平は劉封をはね付けようとする手を握り締めて押さえ、顔をそむけて慙愧の念をこらえた。
「あの博望坡での夜、こうして私の腕にいたではないですか」
「う……」
 唇をふさぐと、逃げようとする舌をからめ取って吸い上げる。
「ふ…」
 長く長く続いた口付け。十年の時を取り戻させる長さだった。
 離れた時には、互いの唇の間に唾液がつと糸を引いた。
「上達されていないようで、安心いたした」
 劉封はふっと笑った。
「たわむれはこの程度にしておきましょう。私はなにも下世話な意味で言っているのではないのです関平殿。私と共に魏に下りませぬか」
「りゅ…劉封殿…? なにを、一体なにをおっしゃっているのか」
 青天の霹靂にも似た劉封の突然の言葉に反応ができない。劉封はなにを口にしたのか。
「どうせ愚鈍な禅が跡を継ぐとなれば早晩蜀は滅びるのだから、早いか遅いかの違いだけではないですか」
「劉封殿、あなたは…、あなたはきっとどうかなさったのだ」
「蜀は私のものになるはずだった。禅などより私の方が太子にふさわしいのは誰もが認めるところです。私のものでなくなった蜀などどうなとなるがいい」
「馬鹿な! どうかなさっているのです。今の言葉は聞かなかったこととさせていただく。とにかくもう一度孟達を呼んで話しをさせて下され」
「そうしていつまで忠臣をぶっていられますかな」
 調子を落として続けた。
「あなたのお耳には誰も入れなかったようだが、私をこのような山の小城に追いやったのはあなたのお父上だ。養子には跡目を継がせるべきではないと我が父に忠言したのは関羽将軍なのですぞ」
 切り札を叩きつけるべく、劉封は間合いを計って言い放った。
「──私だけではない! 関平殿もこの先、蜀に身の置き場などないのだ。関羽将軍はこんなに尽くされているあなたよりも関興殿に後を継がせるつもりなのですぞ」
「そのような…」
 関平はつぶやくようにそうとしか、言葉をつづれなかった。
 劉封の一撃は確かに大きな衝動を与えた。
 覚悟はしていた。そうあるべきだと、自分に言い聞かせていた。
 しかし我こそは父の欠け替えない片腕とたのんでいたのは確かだった。実子である弟でも自分には代えられないはずだと。
「もうお分かりになったでしょう」
「違います! 私は、そのような」
 関平はかぶりを振って自分を叱咤した。
 相手の心に自分の言葉がしみとおったのを見て取って、劉封はだめを押しにかかった。
「あなたが重圧に耐え、忠実にお父上に仕えて功績を上げてきたことを私は知っている。いや誰でも知っていることだ。あなたのお父上も知っていることだ。だというのにお父上はそんなことには興味はないのです」
「お黙り下さい!」
 自分の動揺をも打ち払う勢いで関平は怒鳴りつけた。
 これ以上劉封にしゃべらせたくなかった。聞いてはならないことを聞きそうだった。
 劉封は冷たく続けた。
「私の父と同じです。ご自分の血を残すことにしか、興味がないのです」
「なんということを、おっしゃるのか…」
 関平はめまいがしてその場に倒れ伏しそうだった。
「それでもまだお父上に尽くしますか。戦とはそんなうるわしいものではない。ただ人を殺すのです、己の命を盾に。それでもですか!」
 劉封はそれをずっと考えていた。なぜ戦うのだ。国のために、父のために。人を殺してまで?
 どこをどう押しても答えは出ない。関平も答えなかった。
「足下はもとより蜀の人間ではないのだから。蜀のために尽くす義理などこれでございませぬ。私と孟達と三人でこの地を手土産に魏に参りましょう」
 劉封はもう一度唇を寄せて、関平の上唇を噛んだ。
「ご自分のために生きたらいかがです。ここで冷や飯を食い続けることはない。曹操は諸手を挙げて歓迎してくれましょう」
「あなたがなにをおっしゃっているのか私には分かりませぬ! 分かりたくもございませぬ!」
 劉封を振り払って関平は叫んだ。
 関平は平静を失っていただけに、劉封の変容をいぶかしむ余裕もなくいきどおった。
 あの心優しかった劉封の変容を。
 劉封があえて自分を怒らせようと下賎な言葉を連ねることにも気付かず、怒鳴り散らして言をはばむことしか身を守る手段を講じ得なかった。
「もうこれ以上あなたと話しても無駄のようだ。この地には将たる将は一人もない。かくなる上は成都に参って伯父上に直接お願い申し上げる!」
 ただもう劉封と面していたくないだけ気持ちが先に立って、関平は足音高く上庸城を後にした。しかし劉封の言葉はいつまでも耳に残って消えなかった。
──なんのために戦うのですか関平殿。あなたになにも与えないお父上のために?

「今に私の気持ちが分かりますよ。今にあなたにも。──いいえ、あなたになら」
 馬を駆って去る関平を城壁から遠く眺めがなら劉封は一人ごちた。
「あなたは私と違って素直な方だ。どうか素直に答えを見つけていただきたい。あなたの出す答えはきっと私と違っているでしょう」
 見上げると、暮れかけた空に寝ぼけた月だけが浮かんでいた。
「私はすでに星を愛でる心すらありません。さようなら、関平殿」


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