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時は再び進み、蜀の建興六年春二月、祁山──
「丞相!」
回廊をしずしずと行く諸葛亮を関平は大声で呼び止めた。
「なぜ今回の街亭行きを私にお命じにならないのです」
本陣の置かれている役所にしばらくぶりで出仕すれば、ついに司馬懿がやってくるとの噂で持ち切りだった。
「お体の具合がよろしくないのでしょう」
いずれ予想される本格的な合戦を見越して大事を取っただけとはいえ、体調が優れないとして休養を取っていた関平を気づかった。
「それは歳のせいです。歳と戦うぐらいなら、魏賊と戦う方がまだ勝ち目がありましょう」
「私よりも歳若でおられるのになにをおっしゃる。それに平将軍はいつも若々しくおられる」
「それは私が妻も子もないせいでしょう」
家柄・人品・功績、なに一つ申し分ない関平にはむろん降るように縁談はあった。
張飛は生前、関平が一人身なのを案じていずれ自分の娘をやりたいと考えていたし──関平が首を縦に振らないので結局劉禅の皇后に立ったが──、劉備の皇女を降嫁するという話もあった。
しかしどのような良縁であろうともにべもなく断ってきた。
これがかつての劉封の問いに対して出した答えだった。
男児を持つのは嫡男の絶対的な義務。それを放棄することで、関興と跡目を争う権利を手放した。
──劉封殿、結局私にできたのはこればかりのことでした。
もう答えても聞いてくれる人もなくなったこの問いに、どれだけ苦しんだろうか。
死に救いを求めんと思わないではなかった。しかし、なんの面目あって父にまみえんか。
父が見ることもなかったこの蜀の国に父の分まで尽くすのが供養であると考えもしたが、父は自分にそんな期待を掛けてはいないだろう。
関興が見たという父の霊魂も、関平の元には現われないのだから。
ただ劉封には会ってわびたかった。劉封の苦悩を察することをせず、ただ己の立場でのみ劉封を罵倒した、浅薄な自分を。
──私を恨んでおいでですか、劉封殿。
許されたいと思うのではない。ただわびたかった。ただ、もう一度彼に会いたかった。
──あの晩のこと、酒の上でのたわむれとは思って下さいますな。
今でも戦を控えた夜はあの晩を思い出した。矜持を忘れて人にすがったあの夜を。
劉封を愛していたとは言いがたかった。しかし、誰かれ構わず体を預けたわけでは、ましてなかった。
劉封は苦悩を抱えていた。だからこそ関平の苦しみを見て取った。そして慰撫した。
──その思いやりを受けて劉封殿に自分を明け渡す気になったのではなかったか。それなのに。
その体温を分け与えて自分をいたわった劉封を、軽々しくも見限ったのだった。
──私にもっと度量があったら、劉封殿を説き伏せられていたら、父上はおろか劉封殿も破滅に導くことはなかったものを。
取り返しのつかない後悔の中に置かれて、ようやく関平はそれまでの自分の蒙昧と幸福を知った。
まだ苦しむことを知らなかった博望坡のころ。戦いは生きる意義であり、喜びでさえあった。武のために郷里さえ捨て去った自分を誇る気持ちすらあった。
愚かだったとは言わないが。
──劉封殿、あの時すでに心を決められていたのでしょう? それゆえ私に問いを託された。
彼が味わい彼が遺した苦しみの中にいて、ようやく彼を知った。
なぜ戦うのかと彼の声がいまだ問いかける。
誰も自分を省みないのに、なぜ戦うのだろう。
「どうも私は家族というものに縁が薄いようです」
考え込んでしまったのをわびながら、諸葛亮に答えた。
関平は若くして生家を離れ、父として縁を結んだ人物もすでにない。
「関興殿がおられるではないですか」
「そうでしたな。自慢の弟が私にはありますな」
関平は冷淡に見えないよう気をつけて笑いながら答えた。
「甥御もすくすくとお育ちのようです」
親しくしてきた関興とも距離を置くようになった。
彼は義父の息子であって自分の弟ではない。父というつながりがもはや失われた以上、彼は他人だ。彼が父の後を継ぐのは自分とは関係がない。
関興はなにも知らない。
彼に含むところがあるわけではないのだし、それでいい。
実の兄と変わらず自分を見てくれたし、自分だってなにも物を思わないころはそうだった。
兄はただ変わり者で妻を持とうとしないと、そう思ったままいてくれればと願うだけだ。
この十年というもの、関興に限らず自分は人をへだてて生きてきた。
そう、あれはもうじきで十年も昔になる。
劉封と決別して上庸を出、ようようのことで成都にたどり着けば、追って届けられたのは父の訃報だった。
あの時を思うに、心痛を伴わないではいられない。
──あれで私は死に場を失ったのと同時に生きる意味も、戦う意味もなくしてしまった。
その後、劉封は成都の呼びつけには応じず上庸で自刎した。
──劉封殿は答えを見つけられたのですか。あれがその答えなのですか。劉封殿こそ、ご自分のためには生きられなかったのですね。
残された自分は南に北に戦に追われ、いつのまにか現在の地位にまで登ったが、しかしそれがなんだというのだろう。
──高潔なあなたは他に道を取れなかったのですね。それに比べて、私は強欲者です。
武勇と知略に優れた劉封が若くして不遇に死に、命令をこなすしか能のない自分のような将が永らえ、そして栄達している。
天命とはいかに空しいものかと、関平は思った。人は天命にそって栄えようと懊悩する。しかし埒もないことだ。天は久しく無情で、人の苦しみなど構いはしない。
そして父のためでも蜀のためでもなく自分のために、ただ武に尽くして生きることだけが関平の今の望みだった。それがようやく見い出した戦いの意義だった。思い悩む間もないほどの歴戦の中でつかんだ答えだった。
まだ劉封の声は聞こえるけれど。
関羽将軍の息子だった自分を忘れ、ただの一将として、武芸に忠実であることしかとりえのない少年だったころを思ってやり直してみようと。
──とはいえ、疲れた。
物思いから立ち戻って、関平は嘆息する。
「ともかく座して死を待つくらいなら敵刃の露となれと命じられた方がましです。いかに丞相が神のごとき深謀をお持ちでも、戦に死に遅れた将の気持ちだけはお分かりにはなりませぬ。──いや、失礼を申し上げました」
激して言葉を過ごしたのを後悔しながら、押さえて関平は続けた。
「大体、祁山くんだりまで遠征しておきながら一度も戦場を踏まずでは恥ずかしくて成都に戻れませぬ。どうか出征をお申し付け下され」
諸葛亮は答えなかった。五虎将軍の四虎までもがなき今、関平までも失うことになれば蜀の身代は大いに揺らぐ。趙雲に出陣を思いとどまらせることができなかった諸葛亮は、病を口実に関平を手元にとめ置くつもりだった。
「差し出口ついでに申し上げるが、馬謖にはまだ指揮は無理と思われる。文にして半ば、武にして半ば、経験もございませぬ。蜀のためだけでなく馬謖本人のためにもご再考いただきたい」
馬謖は十年前の自分と同じ年のころ。まだ戦に夢ばかり見ている馬謖。自分の才を試したいと、憧れた人の信頼に応えたいと、そればかり考えている。
昔の自分と重なる。心から馬謖のために、傷を負わせたくなかった。
──馬謖は昔の平将軍に似ている。
関平が気付いているぐらいであるから、諸葛亮はとうに見通していた。
そして関平が関興を平静には見られなかったように、馬謖は今姜維の存在に焦っている。一層危険だ。
馬謖の件は百官が口を連ねて反対していたが、関平の忠言に心配が新たになるのを禁じえない。諸葛亮自身にも馬謖の器量不足は分かっているだけに。
「ふむ」
諸葛亮は気色を見せた。
──しかし、口でさとしても無為なことは当の平将軍が一番分かっておろう。されば…。
「では、私が手勢を連れて街亭の裏に陣取りましょう。ならばよろしいか」
意を得たりと諸葛亮はゆったり笑った。
「それではお願いいたしましょう。正直、心強い」
正堂に足を向けながら二人はゆるゆると話した。
「思えば、丞相と二人で話すことなど初めてですな」
「まことに。私が草盧を出てからもう二十年にもなろうとしておりますのに。あのころからの主だった臣といえばもはや平将軍と趙将軍、そして私だけとなってしまいました」
「そうですな」
劉封が加わったのもそのころだった。そして彼ももういない。
結果的に劉封が自分の手で命を断ったのだとしても、諸葛亮が彼を誅殺したに等しいことを関平は知っている。知ってはいるが、それをどうこう言う気はない。
劉封の存在・劉封の思想は確かに危険なものだった。一国を預かる諸葛亮が彼を放置できなかったのはいたし方ない。それを劉封本人も分かっていてのあの選択だったのだから。
それでも劉封の言葉を世迷いごとと切り捨てられずに関平はいた。
自分たち武に生きる者の自我を揺るがす言葉だとしても。
「──丞相、私はもう十年もあることで思いわずらっているのです。丞相であれば答えをご存知かも知れませぬ」
「お役に立てますならば、なんなりとお答えしましょう」
「私は忠実であることだけが取得で、取り立てて手柄を立もせぬ代わりに丞相のお心を悩ませもせずにこれまで参ったと思います。その私がお尋ねするのです。どうか心をいつわらずに答えていただけますか」
関平はいつも、過ぎるほどに朴訥だ。
「請け合いましょう」
「我ら武人は、なぜ戦をするのでしょう。世を憂い民を憂いて戦うのは無論です。しかし賊軍とて心は同じはず。なぜ互いに傷付け合うのです。そしてそれよりも不思議なのは、なぜ私は長い間、こんなにも簡単なことを疑問にも思わずに参ったのでしょう」
作戦ありきの戦をする諸葛亮にとって、任務に堅い関平は使いやすい将だった。自分の存在に矛盾を抱えながら黙って長年戦にあたってきたこの将を痛々しい思いで見、羽扇をそよがせてからおもむろに答えた。
「人は誰も、そういった問いを抱いて生き、抱いたまま死ぬのです。その問いは人には決して解けぬようになっています。それでもあえて理由を付けるとすれば、それは──」
諸葛亮に扇ぎ返されて応えるかのように、宵の空で金星がきらめいた。
「星が自ら光るように。──星には罪はございませぬ」
「星が…」
劉封は星を好んで眺めた。そして星に詳しかった。
方角を読むくらいしかできない関平に、共に益州に遠征した時分よく星の名を教えた。
『あれが天の川星ですよ』
思い出そうにもう見分けられないその星を思って悄然として空を見上げた。
「丞相は人の魂が天に昇るとお考えになりますか?」
「さあどうでしょうか。まだ平将軍はそのようなご心配をなさらずともよいでしょう」
「私のことではございませぬ。私にはまだなさねばならぬことがあまたございますれば」
しかし出陣の直前に関平は急死し、結果的に街亭は費える。長安進攻の脈所を失って蜀の大望は遠のいた。
あの博望坡の夜、劉封が見上げた天の川。
人が滅び、やがて国さえ滅んでも星は変わらずまたたいている。今でも。
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